不屈の闘士、フェラ・クティの叫び(完全版)
1970年代、アフリカの大地を揺るがすサウンド「アフロ・ビート」がナイジェリアで生まれた。力強い躍動感と伝統的なアフリカ音楽ともに、複雑に重ねられたポリリズムが怒涛のように押し寄せる。洗練されたリズムにのせて、強烈な反体制メッセージが歌い上げられる。自由と正義のために死を決して闘い続けた男、フェラ・アニクラポ=クティ(Fela Anikulapo-Kuti)の歌は今なお、聴くものの魂を揺さぶり続ける。
フェラは1938年10月、ナイジェリアの首都ラゴス(当時)から約50キロ離れたアベオタクで生まれた。1958年、音楽を学ぶためにロンドンへ留学し、そこでトランペットを習得する。その後ナイジェリアに帰国したフェラは、当時アフリカではやっていたハイライフ(ジャズとアフリカ音楽のミックス)を中心に演奏し、活動し始める。その後、1969〜70年にかけて、10カ月のアメリカ・ツアーをつづけたが、フェラの演奏はアメリカではまったく受け入れられなかった。そのとき、フェラが思想的に強く影響を受けたのが、マルコムX、ブラック・パンサー党を中心とするブラック・ムーブメントであった。ナイジェリアに再び帰国したフェラは、アフリカ性への回帰を模索し、伝統的リズム、ジャズをベースとした「アフロ・ビート」という新しいスタイルの音楽を確立し、若者を中心に大きな成功を収めていった。彼の生み出した音楽は斬新さと洗練されたリズム故に世界的な成功を収めると同時に、痛烈な社会批判を込めた魂の叫びでもあった。
「ナイジェリア」という国名自体、悲しい歴史を象徴している。最初にこの地を侵略したポルトガルは、奴隷海岸(スレーブ・コースト)と呼んだ。17世紀頃、ポルトガルに続いてイギリスが同地を植民地化すると、ニジェール川沿いを中心としてこの地域を牛耳っていたイギリス商社「ロイヤル・ナイジェー」社は、あらゆる権利(商業、行政権、司法権)をイギリス国王から得ていたが、1900年、イギリスが同地域を正式に植民地にすると、その名にちなんで「ナイジェリア」と名づけた[i]。こうして植民地時代に先立ち、イギリスのナイジャー社が現在のナイジェリアの地域を支配した結果、ナイジェリアという国名が生まれた。
1979年、フェラはI.T.T.という歌を発表する。I.T.T.とはナイジェリアに進出していた国際電信電話会社(International Telegraph and Telecommunications)の略語で、フェラはこれを新植民地主義の象徴として痛烈に批判する。以下、「今、俺は真実を語ろう」で始まる「I.T.T.(International Thief Thief:国際的な泥棒たち)」の歌詞を一部引用する。
「多国籍企業は金を盗む。奴らは新聞紙上で大きなプロジェクトについて語り、俺たちを混乱に陥れる。俺は、I.T.Tという会社について書いてある本を読んだ。奴らは混乱とインフレと汚職を持ちこむ。それにはあるテクニックがあるのさ。まずひとりのアフリカ人をみつけて、そいつに100万ナイラ渡すんだ。するとそいつは袖の下を使ってボスになってしまう。奴はまるでハツカネズミのように、あちこちに顔を効かせる。奴は少しずつ社会の階段を登り詰め、ジャーナリスト、政府書記官、局長、大臣、国家元首らの友だちになる。そして始まるんだ!混乱が!インフレが!汚職が!公金横領が!抑圧が!オバサンジョとアビオラ(ナイジェリアの企業家・政治家)のように世界を股にかけた泥棒たち(I.T.T.)。だが俺たちは戦う。俺たちはもう糞を運んだりはしない」[ii]。
この曲でフェラは「アフリカ人たちは頭に糞をのせて運んでいる」と叫ぶ。それは何を意味しているのか。植民地化以前のナイジェリアでは伝統的に地面に穴を掘り、そのなかに用を足していた。だが、植民地時代より都市部においては地面に穴を掘ることが不可能になり、代わってヨーロッパ式の肥溜めトイレが植民地政府によって強要された。この方式では糞尿が溜めればそれをバケツに入れ、頭にのせて運び出さなければならない(なおラゴスでは70年代後半より水洗トイレが普及し、現在ではこの方式はほとんど姿を消した)。フェラはI.T.T.のなかでこれを、欧米による新植民地主義を象徴する状況として取りあげ批判した[iii]。
ナイジェリア政府や欧米の新植民地支配を批判し続けたフェラは450回以上も法廷に引き出され、実際に何度も投獄もされている。フェラは投獄された監房の名前「カラクタ」にちなんで、自らの活動拠点(自宅)を4メートルの高さの有刺鉄線でまわりを囲み「カラクタ共和国」と名付け、社会からドロップアウトした若者たち(500人)を受け入れ、社会活動を開始した。
だがフェラのこうした反体制的な姿勢は、政府にとって脅威以外の何ものでもなかった。1974年11月、軍は強硬手段にでる。棍棒、拳銃、催涙ガス、斧、ナイフなどで武装した警察の特別班を満載した3台のトラックがカラクタ共和国に乗りつけ、フェラを中心に、「カラクタ共和国」の住民は暴行され、フェラは頭に9針のけがと片腕を骨折する。
フェラは度重なる政府による弾圧や圧力(ステージに瓶や缶などが投げ込まれての妨害、不法逮捕など)を受けるが、その度にフェラは不屈の闘志をむき出しにして立ち上がる。それどころか、こうしたナイジェリアの圧政を歌にして「カラクタ・ショウ」(Kalakuta Show, 1976)や「ゾンビ」(Zombie, 1976)といった強烈な批判ソングを出し続けていった。上官の命令のままに動き、魂や意思さえも抜かれてしまったナイジェリアの軍隊を批判した「ゾンビ」は名曲のひとつとなった。
「ゾンビー、オー、ゾンビー。おまえは、動けといわなければ動かない。おまえは、考えろと言わなければ考えない。向きを変えることもない。真っ直ぐならば、そのまんま。殺せといわれれば殺し。死ねと言われれば死ぬだろう。気をつけ!そら、早いマーチ、遅いマーチ。帽子を取れ、敬礼!整列、解散!言われるまま」[iv]。
1976年には、ガーナのエンクルマ・ヤング・パイオニアーズを引き継いでYAP(ヤング・アフリカン・パイオニアーズ:Young African Pioneers)という若者中心の運動を組織し、機関紙を発行する。
しかし翌77年2月18日朝、1000人の兵士たちがカラクタを取り囲む。軍人たちはフェラの家を襲撃、放火し、当時77歳になるフェラの母はこのとき2階のバルコニーから突き落とし、その打撲が原因となり死亡した。
「フェラとそのファミリーは全員襲われ、強打され、家は燃やされた。炎上後の政府発行の新聞では、火事は電気のショートが原因とされ、詳しく報道しようとした他誌は、発行、販売が妨害される」[v]。そして「カラクタ襲撃」から7年目の1984年、ついにフェラは投獄のうえ、終身刑が言い渡される。罪状は「ポンドの不法持ち出し」(ニューヨークに向かう空港で1600英ポンドの所持していた、ちなみに同現金は、彼の著作権料が振り込まれるイギリスのロイド銀行の口座から合法的に引き出されたものであった。実際には不法でもなんでもなかった)[vi]。
フェラの伝記を書いたマビヌオリ・カヨデ・イドウ(元YAPのメンバーの一人)は、ラゴスの状況を以下のように描写している。「「仕事の環境は劣悪を極め、非人間的でさえある。<ゴー・スロウ Go Slow>と呼ばれる殺人的な渋滞のため、職場への行き帰りだけで6時間もかかってしまう。炎天下のもと、自動車の波が数センチメートルずつ進むあいだ、すし詰めのバスのなかで人々は汗にまみれ、苦しみのなかで沈黙しながら、「天国に行くために、この世での苦しみに耐えなさい」という宣教師たちから教わったありがたいお言葉でみずからを慰めるのである」(『フェラ・クティ 戦うアフロ・ビートの伝説』78ページ)。
「なぜ黒人は苦しむのかのような曲は、ラゴスのような大都市に流れてきた若者(その多くは失業者)にとっての慰めであり、希望の源泉」であった(同上、79ページ)。
そしてフェラの音楽を、「フェラの音楽はアフリカ社会で新しく芽生えてきた意識を代弁し、黒人のための戦いを世界に向けて歌いあげる。それはこの地上で苦しむ人々の音楽であり、抑圧、植民地主義、ファシズム、新植民地主義体制、のなかで育ってきた人々の音楽であり、学校をドロップアウトして失業にあえぐ若者たちの音楽であり、月々たった15ドルでこき使われる使用人やボーイたちの音楽なのだ。それは収入のない人々が沈黙のなかで死んでゆくのを拒絶したときに生まれた音楽なのだ」(同上、79ページ)と評価する。
フェラの死後、息子であるフェミ・クティ(Femi Anikulapo-kuti)が彼の音楽を受け継ぎ、シュライン(Africa Shrine)でのライブを復活させた。2005年1月から日本でもフェラのアルバム52タイトルが日本版で発売され、再評価の機運が高まっている。フェラの魂はいまも生きつづけている。
[i] 西アフリカ沿岸部では、奴隷海岸(スレーブ・コースト)のほかにも、アイボリー・コースト(象牙海岸)、ゴールド・コースト(黄金海岸)、ペッパー・コースト(胡椒海岸)などが存在する。ナイジェリアの歴史に関しては「武器なき祈り」(113ページ参照)。
[v] 『武器なき祈り』141ページ。このときの襲撃に関して、オバサンジョ将軍は、アムネスティ他、世界中の人権団体から、抗議を受けた。そして襲撃を受けたフェラはさらに告訴され、罪状は「自分の家に比を放ち壊したこと」、法廷では罰金刑まで申し渡された。
[vi] その20カ月後、フェラは証拠不十分で釈放される。その後も戦う姿勢は変えず謳い続けるが、フェラの生み出すサウンドは投獄前とは変わり、絶望のなかで、よりスピリチュアルなものへと変わる。
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